私情を越える方法
                                       鮫島 志芽太
 人は私情を越えるのはむずかしい。寄り合い協力し合って、そのむずかしいこ
とをやろう。しかも睦まじく楽しんで・・・・・というのがロータリーの趣旨であるよう
に思う。
 ところが、私は自分を例にとれば、それがなかなか出来ない。過去において、い
ろいろな役をすすめられたが、結局、引き受けていない。そして、やがて年をとり、
なお一層、出来なくなる。
 城西RCができる時も、そうだった。自分の奉仕の精神の弱さ、工夫の足りなさ
(見解-決断の浅さ)は、恥ずかしいばかりだ。せめて会員集めをと、八人に働き
かけ、四人を説得、推薦したが、結局、二人の入会が実現しただけだった。親類
縁者さえ(いや親類縁者であれば、なおさらに私情がからみ)思いにまかせぬも
のである。
 人世は「必要と高貴によって成り立つ」とは、古代ギリシャ以来の人間たちの人
世哲学である。もちろん文字のない遥か以前から、東洋にも、これらの思想はあ
った。「捨私而高老」などの考えは、それを表している。大義親を滅すともいう。人
間が高貴性を求め行うことに生きがいなりアイデンティティーなりを感ずるのは、
宇宙プラス社会の存在原理でもある。だのに、それがむずかしいのは、人間の生
命とその入れ物である自然プラス社会の矛盾律である。
 そこで、このむずかしいことを実行するには、自分をそれが実行できるような環
境に敢えて投げ込むことが必要であると考えるのである。ロータリアンになるとは、
そのことである。クラブの役員になるとは、さらにそのことを強化することである。
役についたら、これ幸い、絶対に投げないで、苦にしないで、喜び楽しんで遂行
するようにしたいものである。若いクラブほど、それが必要であり、又、実行もし
やすい。ロータリー運動は新人と新クラブの情熱、実行力によって、発展してき
たものといえる。
かけはしー希望のメッセージ (鹿児島城西ロータリークラブ1989年5月31日発行)より転載
甲突川希望のメッセージ