第26回 三方限古典塾(08.12.18)
                  佐藤 一斉(1772〜1859)「言志四録 (その19)」
1 仁者は己れを以て己れに克ち、君子は人を以て人を治む。   言志晩録173
(意訳)情け深くよくできた人は、その理性によって自分の我欲や妄念を克服します。徳
があり人の上に立つ人は、人としての在るべき道によって人を治めます。
(余説)克己・治人については、論語「己れに克ちて礼に復る。(私欲に打ち克ち自我を
没し節度を守る。」と中庸「君子は人を以て人を治む」にあります。
仁とは「人が二人」と書きます。自分と同じように他者の事を考え、相手を同じ仲間
として公平に扱い慈しむことの意味で、儒家特に孟子が提唱した慈愛の徳目です。
「克己・己に克て」とよく言われますが、具体的にはどういうことかが分かります。
「人を治める」のも、法や権力や富・財力では難しいということです。
禅僧沢庵は柳生但馬守宗矩や宮本武蔵の師匠ですが、その著に「心こそ心まよはす心
なれ心に心心ゆるすな」(不動智神妙録)があります。この中の心では、どれとどれが
本心で、どれとどれが妄信でしょうか。考えてみてください。
2 (けい)を持する者は火の如し。人をして(おそ)れて之れを親しむ可からしむ。敬せざ
る者は水の如し。人をして()れて之れに(おぼ)る可からしむ。    言志晩録174
(意訳)自分を顧みて慎み他者を敬うという態度が保持できている人は、火と同じような
ものです。多くの人はそのような人を畏れますが、親しむべき大切な人として敬いもし
ます。一方そのような敬の態度を保持できない人は水と同じようなものです。人はなれ
なれしくなり、けじめなく侮らせておぼれさせるようなものです。
(余説)言志四録では「敬」について繰り返し述べられ一つの核になっています。「過は
不敬に生ず。能く敬すれば則ち過自ら寡し。」(言志後録)や、「人情の向背は、敬と慢
にあり。」(言志晩録)などです。
安岡正篤の「敬という心は少しでも高い境地に進もう、偉大なるものに近づこうとす
る心である。それは同時に反省し慎み至らざる点を恥じる心ともなる。」(人間学のすす
め)と、神渡良平の「道徳的活動と利己的活動を分かつものは敬である。敬をもっては
じめて人間世界に向上の道が開ける。」(安岡正篤の世界)は、よく理解できます。
高き者を敬うということはそれほど難しいことではないように思いますが、自らを顧
みてその至らざるを恥じることは難しいように思いますがいかがですか。
3 心は現在なるを要す。事未だ来たらずに、(むか)う可からず。事(すで)()けるに、
追う可からず。(わずか)に追い(わずか)に邀うとも、便ち是れ放心なり。  言志晩録175
(意訳)どんな時でも自分の生来の良心が、生きている今の自分から離れないように努め
ることが必要です。まだ起きてもいないことを待ち受け、呼び寄せることはできません。
また既に済んでしまった事を追いかけることもできません。わずかでも過去に囚われた
り、未来にこだわったりすることは生来の良心に反していると言えます。
(余説) 「過ぎたことを徒に悔いるな。まだ来ぬことをあれこれ憂うるな」と、今につ
いて誠を尽くし、精一杯に生きる心掛けを教えています。
文中の「放心」については、孟子に「学問の道は他なし。其の放心を求むるのみ(放
失した生来の本心を求めよ)。」とあります。
正法眼蔵随聞記の「学道の人は後日を待って行道せんと思ふことなかれ」や、親鸞の
歌「あすありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ」も同じ趣旨です。
納先生がよく言われる「今日死んでも大丈夫か」にも通じるものがあります。
4 過越(かえつ)過愆(かけん)とは、字は同じゅうして(くん)は異なり。余見る。世人の過越なる者
は必ず過愆なるを。是れ其の同字たる所以(ゆえん)なり。故に人事は(むし)ろ及ばざるとも
過ぐること勿れ。                      言志晩録181
(意訳)度を超えたやり()ぎと、物事の本道から外れたやり(あやま)りとは、同じ過の字です
が意味は違います。同じ字を用いたわけは、世間で物事をやり過ぎるときには、必ず過
りをしていることにあると思います。人のすることでは及ばないことがあっても、過ぎ
てしまったのでは余計によくありません。
(余説)過ぎたるは、及ばざるより「もっと」よくないとの趣旨です。論語の「過ぎたる
は猶お及ばざるがごとし」は、過ぎたるも及ばざるも「同じく」よくないということで
あり、やや異なります。
老子の「足るを知れば辱められず。止まるを知れば(あや)うからず」「禍は足るを知らざ
るより大なるはなし」や、言志録「過不及有る処是れ悪なり。過不及無き処是れ善なり」
なども同じ行き過ぎの戒めです。
企業・国・自治体・権力などの組織やさまざまの欲望が、肥大化し過ぎることからの
危険性が最近指摘されており、現在すでにその兆候が見えないでもありません。納先生
がよく警告される「もっともっと病」にすでに冒されているのかも知れません。